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死後世界の文をネットで調べていたら、、 「家族葬・海洋葬ネット」という葬儀屋さんのHPがあった。 この会社の代表の愛甲宰三氏は、なまじのお坊さんよりも「仏教」の常識をよく認識している。 嬉しい内容なので、以下へ ↓ そのまま無断転載しました。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ●日本のお葬式は、仏教の専売特許だと思い込んでいたのですが、仏教の開祖、お釈迦さまは僧侶が葬儀にかかわる必要がないと考えていたようです。 ●「マハー・パリニッバーナ経」(大般涅槃経/だいはつねはんぎょう)という教典にお釈迦さまが亡くなられる前後のことが次のように書かれています。 ---侍者のアーナンダがお釈迦様に 「亡くなられたらお葬式はどうすればよいのですか」 ---お釈迦様は 「アーナンダよ。お前たちは、修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。 正しい目的を実行せよ。正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ。 アーナンダよ。王族の賢者たち、バラモンの賢者たち、資産者の賢者たちで、修行完成者(如来)に対して清らかな信仰をいだいている人々がいる。 彼らが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう」(「ブッダ最後の旅」中村元訳・岩波文庫) ●わかりやすく説明すると 「お釈迦さまは、自分の葬式は在家の人間がやる。 おまえたちはそんなことにかかわらずに修行をすればよいと、そのように指示されたというのです。つまり、お葬式は宗教の問題ではないとおっしゃているわけです。 従って、仏教はお葬式をやるものだと思い込んでいる日本人の常識がおかしいのです。 仏教はお葬式をやりません。今でも南都六宗といわれる奈良の寺院では、お葬式は一切やっておりません ■葬式に無関心で消滅した仏教? ●仏教の発祥地インドでは、1203年にイスラム教徒による寺院の破壊、僧侶の追放などにより仏教は衰退、消滅した(僧侶の多くはチベット、ネパール、南インドへのがれる)といわれています。 ●しかし、その背景には、 「◎釈迦の死後の僧侶たちは寺院のなかに住み、民衆のなかにとけ込もうとはしませんでした。・・ ◎ヒンドゥー教では、出生・結婚・死亡などの冠婚葬祭の儀礼は事細かにさだめられていて、家庭のなかで大きな意味を持つものとして教えられています。 仏教はこれらの宗教的儀礼を排斥したために、・・大衆の家庭内に奥深くに定着しませんでした。・・ ◎仏教は人間差別に真っ向から反対する思想を打ち出しました。・・しかしその実現に向けて社会の仕組みを変える運動を起こしませんでした(仏事・仏教の基礎知識/講談社)」。 このためにインドでは仏教が大衆から見放されたといわれています。 輪廻のない世界へ ●仏教も「輪廻転生」を受けついでいます。死後、人は死後の旅「中有(ちゅうゆう)・中陰(ちゅういん)」(死んでからつぎに生まれ変わるまでの中間存在:49日間)をへて、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人(じん)・天(てん)の六つの世界、六道(りくどう)にわけられ、生まれ変わります。 ●どの世界に生まれ変わるかは、生前のおこないが善行か悪行かによってきまります。これを「因果応報(いんがおうほう)」といいます。 この「因果応報」の鎖(くさり)をたちきるには、「輪廻のない世界=浄土(じょうど)」にいくしかありません。この方法をおしえるのが仏教です。 ●ただし、この教えは、仏教を説くまえの道徳的方便(ほうべん)または、仏教の大衆化をはかるもので、死にたいする浅い考えだといわれています。 死後を考えるのは、観念の遊び ●本来、仏教では霊魂の存在をみとめず、生も死もありません。釈迦は弟子のマールンクヤに死後の世界について質問され「今すべきことをせずに、わかりもしないことを考えるのはやめなさい」と教えています。 死後の世界はあるか、ないか。有か無かとの問いに、是(ぜ)とも非(ひ)ともこたえないのです。 こうした観念の遊びは苦悩の解決や人間の救いに役立たないという意味です。 ●釈迦は、死をまじかにして、弟子たちにこう語りかけています。 「弟子たちよ、わたしのおわりはすでに近い。別離も遠いことではない。 しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はいない。 今わたしの身体が朽(く)ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示しているにすぎない。」 「弟子たちよ、今はわたしの最後のときである。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。 仏は肉体ではない。さとりそのものである。 肉体はここに亡びても、さとりは永遠に法として生きている。だから、わたしの肉体をみる者が、わたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそ、わたしを見るのである。」 無常、無我を悟れば、苦しみを断つ ●これらの言葉は、釈迦が人間の肉体の死を、生・老・病といったほかの現象とおなじく、単なる自然現象、つまり諸行無常(現象するものは、すべて生成消滅し、永遠不変ではありえない)の世のなかに生ずる一つの変化として考えていたのことを明示しています。 ●「わが身体を見ては、その汚れをおもって貪らず(欲しがらず)、苦しみも楽しみも共に苦しみの因(もと)であるとおもってふけらず(心をうばわれず)、わが心を観ては、その中に”自我”はないとおもい、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。」 このように説いた釈迦にとって、生・老・病も苦にはならなくなり、悟りをひらいて仏陀となったのです。 仏教は霊魂をみとめない 諸行無常であるからこそ、必然的に諸法無我(すべての事物は我(永遠不変の本質)をもたない)であり、いま人間として存在しているわたしたちは、無数の因縁によって仮に存在しているにすぎません。 それがこわれたときに肉体の死がおとずれますから、死後の世界にまでも、永遠に存在しつづけるような我(個としての実体)や霊などはありません。 輪廻転生と無我の矛盾 この霊が存在しないとの考えは、輪廻転生からの解脱の方法を「梵我一如」、アートマン(我)を形成する霊魂と絶対真理のブラフマン(梵)と一体化する知力にもとめたヒンドゥー教とは、するどく対立します。 葬儀においても、火葬を神聖な儀式ととらえるヒンドゥー教にたいして、仏教は葬式や法事といった儀式とは、特別な関係はありませんでした。 むしろ、釈迦は出家修行者は葬儀にかかわるなとたしなめています。ヒンドゥー教にとっては、仏教は来世を信じない異端の教えでした。 しかし、日本仏教の葬儀や法事にかんする考えにも、故人の死後の世界での冥福(めいふく)をいのり、故人にたいする祖霊供養を表現する儀式としてとらえられています。 もう一つは釈迦入滅後、教団は修行にはげむ出家者が救われる小乗仏教(釈迦は人間で、自力でさとりをひらいた35才以上の釈迦しか崇拝しない)と慈愛の心を核とした庶民救済の大乗仏教(宇宙真理である仏陀が、人間である釈迦に姿をかえて真理を説く)に分裂し、中国に伝わった大乗仏教が儒教(霊肉二元論)をくみこみ、その中国仏教が日本に伝来し、日本の霊魂をおそれる民族信仰や神道と融合していった経過のなかで祖霊供養が儀式化されていきました。 なお、仏教圏の国では、仏陀が入滅後に在家信者の手によって荼毘(だび)にふされた故事にもとづいて火葬にする場合が多いようです。 ━━━━━━━━━━━━━━━ 「霊肉二元論をくみこみ」と、 本来の仏教が霊肉一元論であったことを明確に知っている。 よく勉強している葬儀屋さんだと思う こういう人は、何宗式であろうと、遺族にとってよき葬儀が可能なものだ。
by hiratomisinzo
| 2009-01-21 23:48
| 宗教
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