宮本武蔵も鍔を作鍛しています。。
国宝になっている百舌の絵が示すように、絵師としても、超一流です。
武蔵の鍔は左右なまこ透かし といわれる形で、海鼠鍔と呼ばれる簡素な図柄です。
それ以前に見られない形なので、たぶん武蔵の創造でしょう。
正真ものは写真でしか観た事がないが、姿型、肉置き、バランス、のびやかさに於いて抜群の感覚です。
左の写真は、ま、現代製のオモチャのようなものですが、、武蔵作の海鼠鍔は、その後の時代、幕末、明治に至るまで、様々な鍔工、金工師が模作していますが、どうしても、洗練味と緊張観において到底及ばないものです。
(いずれココに本物の武蔵鍔を転載しますが)
これは武蔵が肥後藩お抱えの鍔工名人たちとの、深い交流があったことをを首肯できます。
肥後藩ではなぜ、鍔工諸名人が輩出したのか、これは藩祖の細川忠興の風流と関わっています。
細川忠興幽斎は、剣豪将軍足利義輝の側近で、自らも塚原卜伝に学び、弓馬故実を武田信富から相伝されるなど、茶道ほか武芸百般に精通した大教養人でした。
歌は三条西実枝に学び「古今伝授」を受け、門人に智仁親王・烏丸光広・中院通勝などがいます。
その道統は二代藩主忠利にも受け継がれ、細川家では諸芸に秀でた者を招き、扶持を与えました。
剣術だけでなく、絵師としても優れた才を発揮する武蔵を招いて、側近並みの待遇したのも、この消息です。、
続く。