その(26)へ続く「長い間、インドから仏教が消滅状態だった理由
インドからなぜ仏教が消滅したのでしょうか?
ブッダのサンガ(教団)内では皆が平等でした。
世俗では最も卑しいとされるチャンダラーであっても、先輩であれば、バラモンやクシャトリア出身者も先輩への礼をとりました。
ブッダ十大弟子の一人で自律第一と謂われたウパーリは俗世では奴隷であり、スニータは賎民でした。
仏教というものの本質を捉えるためにも、その原因を、ラージ・シエーカル著、いいだ、もも訳「ガンジーはなぜ殺されたか」より要約してみます。
(1)お釈迦さんの死後も仏教は広がって行きましたが、それでは支配に都合のいい、カースト制が崩壊してしまいます。
危機を覚えたバラモンはそのために数世紀をかけて、仏教教理をヒンズー教に取り込む方法を画策しました。
バラモンはベーダ時代は、牛肉を食べるのはバラモンだけに許された特権だったが、ある時代、牛の疫病が大流行して、牛不足の時代が続いた時、
牧畜業のスードラに取り入るために、牛は神の使いだと決めて牛肉を食べないという、最高の犠牲を払って、バラモン教に改宗させようとしたこと。
(2)ブッダをヒンズー教9番目の神様に偶像化して、仏教をヒンズー教の中に吸収したこと。
(3)仏教を大乗と小乗に分裂させて教理の撹乱を謀ったこと。
(4)それでも考え方を変えない仏教徒を大量に殺戮させた。これは10世紀から北インドに侵略したイスラム勢力も同様で1203年には仏教最後の拠点のブイクラマシーラ寺院が破壊され、僧達は四散逃亡を余儀なくされたこと。
(5)、ヒンズー復古主義が5)お釈迦さんの伝記を、ジャータカ(
前生譚)話をヒンズー的考えで創作する画策をしたこと。
中国へは、5世紀頃、「アーガマ」が入って「阿含経」として漢訳されたものの、その他にも、仏教という名で、様々なお経が伝わり、また勝手な悟りで、国内でもお経が書かれたりで、(これは日本でも同じだった)
何が仏教なのか、解らない事情もありました。
そこで629年、『西遊記』のモデルともなった、玄奘(げんじょう)三蔵が28歳の時、天竺(インド)へ行けば本当の仏教があるに違いないと考え
、唐王朝の国禁を犯してまでの凄い情熱で、何人かの弟子を伴って、長安を出発し、西域の諸国を巡めぐり、4年間の歳月をかけた求法の旅を果たして、印度へ渡りました。
しかしインドでも、仏教らしい考え方どこにもな「西域記」という自伝でも、落胆し、悲嘆に暮れた、とあります。
その(29)に続く