40歳の21年前に家族に遺言している。
その時に遺骸は解剖に出す手続きもした。
別に医学に寄与したいから、とかの理由でもない。
そうしておくと、大学の医学部がバラバラ刻みの解剖の後は、焼き場で燃やして骨灰にしてくれて、多摩霊園の行き倒れなどで死んだ人達の、団体さんと一緒の墓へ葬ってくれるからです。
骨灰は別に墓に入れてくれなくとも、そこら辺の林などの中にバラ蒔いて、木の燐サン肥やしになれば仕合わせなのだが、ま、法律上そうは行かないから仕方がない。
本当はアメリカインデアンにもあったように、遺骸を大きめの木の股に括り乗せて、そのうちに鳥が啄ばんでくれる「鳥葬」が好みなのだが、現代はそんな贅沢はムリだから仕方がない。
とにかく解剖は、火葬代も要らないし、墓もいらないし、
どこでノタレ死にしょうとも、手続証さえ身につけておけば、遺体処理がOKだから有難いことで、いつも、心の旅人の私には合っている。
墓が要らないというのは、父の墓が天理教の墓地にあるが、特例の年祭行事などの時はともかくも、個人として墓参りをしたことがないからです。
15.6年前にお袋が死亡して、父の墓へ納骨した。
誰よりも敬愛する母、私などは死ぬまで超えられない部分を持っていた母だが、
この15.6年の間に天理を10回ほど通り、墓地の五百メートル先も通ったが墓参りはしたことがない。
別に墓を否定するわけではありません。作りたい人は生前からデカイのを作っておくもよしです。
でも私にとっては只の石の物体で、死亡記念碑でしかありません。
それに、私にとって母は、過去の人ではないのです。
あの天下無類の柔和な、しかし、どこか厳しさのある慈眼で、いつも観られいるように自分が、感じているからです。
今でも時々、母とアレコレと会話をします。
ときに大笑いし、時に目頭が熱くなります。
「親孝行したいときには親がなし」というものです(^^)。
そして平和を希求した母の精神に呪縛(^^)されております。
相手は私の心の中で「生きて活動」しおりますので、
まだまだ、墓参りどころのサワギではないわけです(^^)。
私が自分の墓が要らないのは、そんな事情もありますが、墓つくりは今、現在、日々が自分の墓作りだと考えているからです。
それにしてはお前、大した生き方はしておらんのう、言われると思いますが、ま、その点は、生来の凡俗の徒ですから、ご容赦のほどをば(^^)