1965年9月。米軍の掃討作戦で家々を焼かれたベトナム南部の村、爆撃の中で撮られたこの写真を初めて見てから、
既に30年以上が経つが、何度見ても、、、胸に迫る。
両腕に2人の幼子を抱え、歯を食いしばって深い川を渡る母親。恐怖に脅えた目を向ける、もう1組の母と子。
撮られる方も撮る方も必死。
この人達はこの後、どうなったのだろうか、、。
撮影者は青森市出身のカメラマン沢田教一。
この写真で米国ジャーナリズム界最高のピュリツァー賞に輝いたが、5年後、戦乱が広がったカンボジアで、首と胸を計4発、何者かに撃たれて34歳で死んだ。
7・8年前、青森県に住む、沢田氏の奥さんが、 壁に飾った「安全への逃避」をながめながら、亡き戦場カメラマンの夫が
「数え切れないほどの死体を見て、それが当たり前になってくるのが怖い」
と言っていたと、語った。
沢田氏は、戦争の酷さを、だんだんと命を賭けて伝えたくなった のだろう。
戦車に引きずられ、ぼろ切れのように死んでいる「ベトコンゲリラ」の農民。
爆撃で肌を焼かれ、泣き叫ぶ女たち。
砲撃戦の恐怖に震え、神に祈る若い米兵の姿など。
多くの写真は、殺すも殺されるも、庶民の姿。