その(1)とその(2)の
例1 と例2 の違いについて考えたい。
アマゾンの辺境地のインデオが片足を毒蛇や噛まれたり毒虫に刺されたりして、やがてエソになって死亡していくのは、太古からのこと。
(写真はインデオの子供とお婆ちゃん)
だから彼らは毒ヘビに噛まれても、毒蛇を恨むこともなく、自然は「
思い通りにならないもの」と、知っているから、慫慂として、死んで行った。
彼らは七代前の暮らしを守ることを昔からの知恵とした。
そこに誰かが、毒蛇に噛まれても「町へ出て手術すれば命が助かる」という事になると、インデオには無い、お金が必要となり、インデオ集落に
お金への思いがハビコリだす。
お金を得るには遠くの町へ出て、稼ぐしかない。町で金持ちになる?
まず無理。
差別される低賃金労働者なるか、挙句はルンペンに身を落とすしかない。
それだけではなく、何万年と、森とともに生きてきた彼ら
インデオ文化の崩壊に繋がって行くだろう。
(すでに森が伐採されて、先進国の牧場プランテーションなどで、自分達が棲んできた森林の伐採や、牧童などで、月給6.7百円で奴隷的労働に従事しているインデオも多い。
ここでは牛の値段が可愛そうなほど廉く、だから日本でも「焼肉食い放題で2千円でも採算が合う)
例2 の、
ネパールの足がガンに罹りながら、手術を拒否して生存中に、5人の子供の成長の手助けをしょうとする母親の姿は、自己の尊厳を保つ姿ではあるが、同時に福祉が発達していない社会構造を象徴している。
またさらに地主と小作などの構造からや、資本の原理からも「貧富の差」がますます加速している。
だから現在のセンシン国の日本人の側からの「命や尊厳」とは同一には語れない。
よい、わるいはともかくも、日本は世界でも「特殊な社会に」あると私は思っている。
その(3)日本を含むセンシン国の「命と人権意識」へ続く。