6世紀半ばには、
過去に大臣を出して栄華を際めた
葛城氏や
平群氏は、既に本家の滅亡により勢いを無くし、一門は衰退し、大和の下田(げでん)に追いやられるか他国へ離散した。
変わって
「蘇我氏」が頭角を表して、
大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となった。
やがて大伴氏は物部氏・蘇我氏との権力争いに敗北し、大伴氏の黄金時代は幕を閉じ、生き残った眷属は、蘇我氏や物部氏への臣従、または離散。
物部氏と蘇我(稲目)の二大勢力は、過去の葛城氏や、後の
藤原氏同様、娘を天皇に嫁がせ、天皇の
外戚となった。
だが蘇我果安は672年、壬申の乱で大友皇子について敗れて、流罪・自害。
その甥の子の蘇我安麻呂は、天武天皇からの信任厚く蘇我氏の後を継ぎ、
新たに
「石川」の姓を賜ったが、
その後の相次ぐ政争で、さらに衰退し、分家の系統だけがしばらく続く事になる。
和銅6(713)年石川氏の外孫で、文武天皇の妻の、石川刀子娘が天皇崩御後、某男との関係を持った事から身分を剥奪され、
子どもの広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪された。
その後、石川氏は中流貴族としてその命脈を保ったが、764年9月藤原仲麻呂の乱で衰退し、石川氏から、公家は出なくなり、
まもなく、歴史から姿を消す。
欽明天皇の時代百済から仏像が贈られ、蘇我氏を中心とする崇仏派と
物部氏、中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。
天皇が「仏教を敬うように」といったこともあり、神道派の物部守屋は、蘇我軍・中臣(藤原)軍の連合軍に攻め込まれて戦死した。
686年、物部氏の一門は姓を改めて、「
石上氏(いそのかみし)」として地位を得た。
子孫の石上宅嗣は大納言にまで昇って、日本初の公開図書館・芸亭の創設者として活躍した。
だが、宅嗣の死後、9世紀前半頃に石上一門は衰退した。
もとより、過去に栄華を極めた一門眷属の中には「名門」ゆえに、
農奴(
賤民)にされた人々もいた。
「
栄枯盛衰」の歴史であった。