「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という
歎異抄の一節。
当時の世間の常識では、善人しか往生できないと言われていたが
親鸞の「悪人正機」は一般的・常識的な善悪でもなく
仏の視点から見た「悪人」
誰しも、真理から観ればわれわれ凡夫は、「善悪」の判断すらおぼつかない
救われようのない「悪人」であると気付かされるもの
自分は「善人」だと思いこみ、その事に気付かされる事すらできないのも
「実は悪人」だという。
さらに「悪人」とは、
〇当時の朝廷支配に従わなかった不服従の人々。
または被差別の民。
〇正法を誹謗するもの
〇当時差別された「屠沽(とこ)の人々」
「屠」は皮、肉、羽、腱などを使うために、動物の殺生を職業としている人々。
「沽」は、ウソをいって人をたぶらかさるをえなかった商いをする者。も、差している。
当時の一般常識とは相違して、そういう人こそ、救われるのですヨ、という「差別観是正」の思想もあった。
親鸞は当時の比叡山から、僧籍を剥奪されて流罪となり、赦免になっても、
後々まで自らを「流人善信」と呼んだ。
また自分のことを「愚禿釋親鸞」と称するなど、
庶民とともに道を歩んだ。
親鸞は、あの当時でも、
他の生き物たち、この世界の真理から観れば、不完全な自分の存在を知っていたのだろう。
まさしく「
親鸞聖人」である。
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