勝ったとか、負けたの「競技」にはなりません。
「競技」として大衆への娯楽を資するものではありません。
泰平が続いた江戸時代の中期以降であろうか、
泰平の世の剣術家が、武士たちへの剣術への興味を惹くために、竹刀と防具を使用して、「勝った・負けた」でゲーム競技のように勝負に拘泥した流派も出た。
だか、剣術の基本は「真剣使用」であって、竹刀での打ち合いは「剣術の基本精神」をなおざりに、堕落させてしまうものとの諸流派も存した。
これらの流派では昔通りに「木刀による型稽古」に終止した。
幕末の江戸で道場を開いた
近藤勇 が、他流試合へ来た者へ、竹刀ではまけるので、親しくしている他流道場の高弟へ代金を包んで、
応援を頼んだ事は有名だが、剣の実力は、トップクラスだった事は「池田屋の変」などでも示した。
私は竹刀も使用するが「間合い」や「撃ち」の「瞬間の成り行き」を互いに学ぶためだけです。
反りのややある木刀や、模造刀は、やや真剣に類似したところもあって、これによる「寸止め」の「型稽古」を重視している。
乱取り「寸止め」試合稽古型もする。
どちらが速く刃を食い込ませたのかは、端で見ている者には判らず、互いの心の中でしか判らない。
これとても「勝った・負けた」の稽古ではなく、どこまで自分の「心気と術」が通用したのか、互いに「自分自身を内観して、顧みる」稽古である。
その場合も私の仲間も「勝った・負けた」には拘泥してはいない。
真剣での勝負は多くの場合「瞬間」であり「勝った・負けた」ではなく「生か死か・大怪我」な事を承知しているからだ。
それ故に、仲間同士の信頼と敬意こそが大切となる。
ソクラテスは、哲学(
愛智・後から入った知識ではなく、本来そなえている智慧を愛しむこと )は「死のリハーサル」と言ったが、
剣術も「生・死の境目」に悟りはいる稽古だともいえよう。
ただ、こういう世界は、
この動画のように
http://hiratomi.exblog.jp/18562051/
少なくとも50~60センチ手前の槍先の最速の突きを、木刀でハジいたり、躱しつつ籠手を切るという技が基本だといえよう。
技と平静な心境を練りあげようとする仲間剣士の撃ち稽古は、ほとんど無心に近いので厳しく、
互いに無心な「剣・禅一如」への、精神的な高みへの階段を、一段、一段と、のぼるしか
「道」 はないのだなあ、、、と思念している。
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