「
南洲翁遺訓」が地元の鹿児島から出ずに、庄内藩から著わされには理由があった。
庄内藩は明治維新の当時まで会津藩と共に熱烈な佐幕派だった。
明治元年、戊辰の役に、官軍総参謀として庄内に向かった西郷は、
藩に対して寛大の措置をとり、西郷の人となりは庄内藩士に感銘を与えた。
明治三年、庄内藩士達が、はるばる鹿児島に西郷を訪ねた。
明治八年には、藩の重臣菅実秀が8人の青年を引きつれて西郷さんのもとに至り、教えを受けた。
それが明治二十三年に著作され、後世に伝えられた。
「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。
天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我れを愛する心を以て人を愛するなり。
人を相手にせず天を相手にせよ。
天を相手にして己れを尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
「己を愛するは善からぬことの第一なり。
修業の出きぬも、事のならぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐り驕慢(おごりたかぶる)の生ずるも、みな自分を愛するが為なれば、決して己を愛せぬものなり」
(己を愛する、すなわち自分さえ良ければ他人のことなどはどうでもよいとするのは、人間として善からぬことの第一といわく)
「命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬという人は,仕末に困るものなり。
然しこの仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
明治10年(1877年)9月24日、政府軍が熊本の城山を総攻撃したとき、西郷さんは股と腹に被弾。
やがて別府晋介を顧みて
「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」
襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼。切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし」(御免なっ給もんし)と叫び介錯。
西郷隆盛 享年51(満49歳)