小沢健二氏の論調が「善悪二元論」調なので物足りない、とあった。
「善悪二元論」
このことに疑問を投げる人がいるんだな、と、感銘する。
善悪二元論」(ぜんあくにげんろん)は、世の中の事象を善と悪の二つに分類する事で世界を理解しようとする思想。
およそ3・4千年前から起こった人間の考え方だ。
多くの「宗教」や「哲学」が、善悪二元論でもって構築されてきたことは事実。
「裁判神」または「裁きの理」の存在を論じれば必ず、善と悪を明瞭に分けるものだからだ。
多くの人が、こん日でも善悪二元論の考え方のなかに居る。
「善悪二元論」の対意語は「善一元論」だ。
どこからどこまで「善」ばかり、という考え方だ。
「善一元論」の考え方の代表的な人物は釈迦、ソクラテス、老子などであった。
釈迦は「この世のすべてが仏(真理)なのに、人間の頭の中だけが
真理からハズれてしまっている。だから、自分の中の仏性に気づこうではないか」
と、提唱した。
基本的に、この世界は「善ばかり」の見解で、それへの回帰を宣布した。
でも私は「善悪」で物事を判断するのは止めにしちまった。
「善と悪」との概念は、時代や国、または、その国の法律や宗教によって目マグルシク、コロコロと変化して来て、当てにはならないからだ。
だから
「自然か?不自然か?」で物事の「物サシ」を持つようにした。
言葉を変えれば、調和を保てる
「循環」か、調和が崩れる
「非循環」なのか、
というモノサシでもある。
でも自然の調和体は、そこに在るだけで、何も喋ってくれない。
だから、循環調和体の一部の、森のクマさんや虎さんや、鹿シカさんへ
「どの程度までなら、ヒト科たちの不自然が許容されるのでっか?」
なども尋いているという具合だ。
ともあれ、「善一元論」という言葉は尊く、深い。
でもこの現代社会の中で、ましてや、
「センシン国」の日本の中で「善一元論」で暮らすには、大変難しい。
凡夫の私などは、マルッきしの「落第生」と言える。
が、日常の中で、自分で気づいた時に、なるたけそうしたいもの、と思って実行している。