宮本武蔵は晩年、肥後細川藩で兵法指南役として格別待遇で迎えられた。
その後、霊厳洞に籠もり、自らの兵法の集大成「五輪書」を書き残したが、
私は霊厳洞のある金峰山は熊本城下からさほど遠くない所にあり、
食事や着替えは、武蔵の門弟が霊厳洞まで運んだものであろうと考えていた。
でもこの度、霊厳洞を訪れて、それが誤りであったことに気づいた。
霊厳洞は熊本城から車で35分ほど、約15キロほどの金峰山、西麓にあった。
その入り口に曹洞宗、雲厳禅寺があった。
愛犬家の60代の住職さんから聞くと、雲厳禅寺は江戸時代の半ばまでは同じ禅寺でも、臨済宗で、鎌倉末期にに日本に渡来した元の禅僧・東陵永が開南北朝時代に開山したという。
この事から武蔵は熊本で臨済禅門に入り、当時雲厳禅寺は廃寺だったが、武蔵の食事は多くの場合、廃寺の「寺守り」が世話取りをしたらしい消息が判った。
寺から見える山裾には、民家も点在していて、江戸初期には、もっと家並みがあったらしい。
寺と霊厳洞との道筋の境内に様々な表情をした
五百羅漢があった。
1779(安永8年・十代徳川家治治世)から25年間にわたり肥前の国の石工・了善が彫ったもので、肥後の豪商淵田屋義平が寄進・奉納し、息子の代に完成したものという。
いずれの像も何度観ても飽きることのない入魂の
大力作。
風雨の中にさらして、
風化させたくない芸術だと思った。
羅漢とは阿羅漢のことでインドのサンスクリット語の漢訳。
古来からインドの宗教一般で「尊敬されるべき修行者」をアラカンと呼んだ。
初期仏教でも、修行者の到達しえる高い境地を意味し、ブッダが亡くなった100年後、第1回の「如是我聞・我はかくの如く聞いている」
と仏典編集(結集(けつじゅう))に集まった500人の弟子は「五百羅漢」と呼ばれて尊敬された。
日本では必ずしも五百体の像がなくても「五百羅漢」と呼称されている。
雲厳禅寺は幕末から長い間廃寺となっていたが、現住職の父御殿が武蔵にちなみつつ、寺堂を再興したもの。
現住職と会話をしていると、人格的に高い境涯にあり、まさに阿羅漢だったと、
思い出してはつくづくと、今も思う。