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{わが国では、史実と言うよりは伝説ですが、遊女は皇女の裔であり、木地師は盲目の惟喬親王の(精神的な)末裔と称していました。 江戸期には、宇喜多家の遺臣が将軍家の暗殺を図り、死を免ずる代償として穢多頭に落とされました。 然様な事例を鑑みれば、出自を以て他者を蔑視するなど、自身が卑しい人間であると公言しているようなもの。愚かしい限りでしょう。} ----------------------------------------------------------- 武図書氏へ。 皇女といえども親が一族の派閥争いに敗れ 地位を失って宮廷を追われては「只の人」です。 遊女は「皇女の裔」は、当然の姿です。 成り上がり者が、そんな女性を買いたがるわけでした。 また、世代を越えて、芸事の出来る高級遊女となって、宮廷などに出入りし、やがて側室となって、 敵中に自分の血を残すわけです。 また、天皇家や藤原氏は常に「血で血を洗う」「骨肉相喰む」主導権争奪の歴史でしたから、たとへ血族であっても、素直に臣従しない政敵等へは、再び復活できないように、徹底的な「身分封鎖」を謀ったわけでした。 「出自を以て他者を蔑視するなど、自身が卑しい人間であるとの公言」 その通りです。 今だに、そがいな人はとっても恥ずかしい事です。 大切なのは「出自」などではなく、その人の「行為」と「精神」のみです。 ▲
by hiratomisinzo
| 2008-05-28 06:07
| 差別問題
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Comments(6)
6世紀半ばには、 過去に大臣を出して栄華を際めた葛城氏や平群氏は、既に本家の滅亡により勢いを無くし、一門は衰退し、大和の下田(げでん)に追いやられるか他国へ離散した。 変わって「蘇我氏」が頭角を表して、 大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となった。 やがて大伴氏は物部氏・蘇我氏との権力争いに敗北し、大伴氏の黄金時代は幕を閉じ、生き残った眷属は、蘇我氏や物部氏への臣従、または離散。 物部氏と蘇我(稲目)の二大勢力は、過去の葛城氏や、後の藤原氏同様、娘を天皇に嫁がせ、天皇の外戚となった。 だが蘇我果安は672年、壬申の乱で大友皇子について敗れて、流罪・自害。 その甥の子の蘇我安麻呂は、天武天皇からの信任厚く蘇我氏の後を継ぎ、 新たに「石川」の姓を賜ったが、 その後の相次ぐ政争で、さらに衰退し、分家の系統だけがしばらく続く事になる。 和銅6(713)年石川氏の外孫で、文武天皇の妻の、石川刀子娘が天皇崩御後、某男との関係を持った事から身分を剥奪され、 子どもの広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪された。 その後、石川氏は中流貴族としてその命脈を保ったが、764年9月藤原仲麻呂の乱で衰退し、石川氏から、公家は出なくなり、 まもなく、歴史から姿を消す。 欽明天皇の時代百済から仏像が贈られ、蘇我氏を中心とする崇仏派と 物部氏、中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。 天皇が「仏教を敬うように」といったこともあり、神道派の物部守屋は、蘇我軍・中臣(藤原)軍の連合軍に攻め込まれて戦死した。 686年、物部氏の一門は姓を改めて、「石上氏(いそのかみし)」として地位を得た。 子孫の石上宅嗣は大納言にまで昇って、日本初の公開図書館・芸亭の創設者として活躍した。 だが、宅嗣の死後、9世紀前半頃に石上一門は衰退した。 もとより、過去に栄華を極めた一門眷属の中には「名門」ゆえに、 農奴(賤民)にされた人々もいた。 「栄枯盛衰」の歴史であった。 ▲
by hiratomisinzo
| 2008-05-27 23:17
| 差別問題
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歴史から起源の推移と、差別を助長した宗教俗信から起草して、書こうと思ったが、 途中で何だか虚しくなって来た、、。 「今だに、このご時世に、そんな差別意識を持っている人間が居るのかいな、、。」と思うと、愚劣で、呆れて、だんだんと胸クソが悪くなって、 書く気力も失せてしまった。 だからザット結論を言いたい。→日本人であるならば、99、999%元、賤民とされた人々の血を受け継いでいるという事。 よく「皇室と藤原氏以外はみんな賤民の子孫」と言う人もいるが、それも歴史的には当たっていない。 奈良時代、皇族の身分を離れて、姓(かばね)を与えられ「臣下の籍」に降りた人もいる。 「賜姓降下(しせいこうか)」と言って、現代語では「皇籍離脱」。 そのような皇族を俗に賜姓皇族と言った。 例えば葛城王(諸兄)など。 このような一族は藤原氏とも婚姻関係があり、高級官僚であったが、 「名門」ということで、次第に「藤原摂家」から妬まれ、ニラまれ、陥されて行き、 平安時代中期には官界から追われ始め、一族眷属は京都から離散、流浪。 鎌倉時代に入ると、各地で、土豪、あるいは農民、あるいは工職人となって暮らした。 元皇族や藤原氏の元血縁の末裔が、技術職人や芸人などの、賤民になるしか活きる道が無かった(好んでなった子孫もいたろうが)歴史もあった。 それが治乱興亡、栄枯盛衰、人の世の生生流転というものだ。 江戸期の部落差別というものを、血筋や血統から行ったというならば、 先祖をサカノボレバば、戦国大名も江戸期の大名も、あなたも私も、あの人もこの人も 日本人99・9・9%が「賤民」の末裔となる由縁。 さらに、15代もサカノボレバ、人はアッチへ移動したり、コッチへ移ったりで、みんなどこかで血の繋がった「血縁」。 さらに、動物さんの皮剥ぎ、皮製品作り、死体の処理などが「穢れ」の仕事。 としたならば、わしゃ明日から、靴も履けぬし、ベルトも使えぬ、太鼓も聞けぬし、葬儀にも行けやせぬ。 (チト、投げヤリでおしまい)。 追加だが、今は亡き住井すえの「橋の無い川」は世界でも読まれている名作だ。 その原作で製作した、今井正監督の「橋の無い川」も力作だ。 伊藤雄之助や北林谷栄や長山藍子などの迫真の演技が印象に深い。 映画の中で、差別をする者達が、実に滑稽に思え、差別をすることが心の底から恥ずかしくなる、素晴らしい映画だった。 さらに追加だが、私の先祖も江戸期のある時代、非差別の女性の血筋を受け継いでいると思うが、私の子や孫たちが今後、ドーワ地区の出身の人と結婚したら、それは皆、同じく和せて喜ばしいことだ♪ ▲
by hiratomisinzo
| 2008-05-26 05:03
| 差別問題
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江戸期は「士農工商」の下の身分というわけで、 言うのも不愉快な言葉「エタ・ヒニン」とされ近世身分制の最下層に置かれた。 それらの人々は簡単に言えば、江戸幕府の政治戦略上、邪魔だった人たちも居て、 現代で言えば、政治犯的だが、昔は自分達よりも身分の高い人々もいるので、 徹底処罰もできず「特別居留地措置」としたわけだ。 でも江戸時代初期には、京都の川原者の大根売りの妹、との説もあるお玉が、将軍・家光の側室になったり(後の5代将軍綱吉の生母・女性最高位の従一位の官位、桂昌院藤原光子との名乗り) などの、事例もあったようで、一般の武家でも「本妻」はともかくも 「妾」「手かけ」などの女性には出身地などにイチイチと、ウルサイことは言わない感覚があったようだ。 徳川中期になると、小作農民の下にさらに下の身分を置いたほうが、支配には都合がよく、身分制を固定化させて、 賎民身分に対する差別は厳しくなった。 藩によっては「エタ狩り」などといって原住地を離れ、都市に流れこんだ人を捕らえたりすることもあった。 その後、明治維新によって近世身分制は廃止され、法律や制度の上での差別はなくなったはずだが 「宗教観念」でも「経済的」にも差別はなくならず、それが社会の仕組みのなかで部落差別として遺された。 (上に公・候・伯・子・男の差別制の「爵位制度」を創っているようでは当たり前だが) その後、大正デモクラシーとともに「いつまでもこんな、謂われの無い、ただ貧しい立場に置かれた差別意識の世の中では、 「被差別者」も「差別者」にとっても、市民同士のイジメ合いだけで、 お互いに不幸なことではないか! と、奈良県御所市から人間解放の水平社運動が起こり、 大正11年3月3日、京都の岡崎公会堂において、大規模な全国水平社創立大会が開催された。 全国水平社創立に際し、その宣言文として、社会運動家、政治運動家、著述家の 西光万吉 ![]() 「人の世に熱あれ 人(じんかん)に幸あれ」で、 後々までも有名な起草文が、駒井喜作によって朗々と読み上げられた。 私はこの文章を読むと今だに胸が震えて感動する。 「エエぞ~~西光万吉~~~~~~!」 って感じ。 ▲
by hiratomisinzo
| 2008-05-25 12:56
| 差別問題
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縁が薄くなるが、東京から以西では、未だに婚姻の時に、囚われる人間が居るらしい。 かく言う私も奈良県育ちである。 小学校や中学校の時、同級生などから、そんな差別があるという話を耳にして、意味も分からず、ただ何となく、矛盾を感じつつも、距離を置いたような苦い経験もあった。 その後、27・8歳の時、そんな差別の歴史を文献などで調べるうちに、差別などはとっても、無知で、恥かしく、愚劣の極まりであることを認識して行った。 だから、自分の結婚の時も、娘二人の結婚の時も、本人の心次第だで、国や、ましてや、出身地などについては、全く関心が無かった。 現在も「どの人」にもそうだ。 これは私の兄姉妹達も一致する処で嬉しい♪ で、一応、ザッと「身分差別」の起こりと歴史について触れておきたい。 2~3世紀に奴卑(ぬひ。「奴碑」とも書く)という存在が知られていて、 彼らは「奴隷」だったようだが、暴力に屈しざるを得ず、仕方なく従属せざるを得なかった人たち。 古代国家が確立し、唐の「律令制」が取り入れられ、官僚制を整備するなど、挙国的な国制改革が進められ、大王(天皇)へ権力が集中することとなり、 支配の制度としての「賎民」が成立。 支配者の、ご都合の良い人達を「良民」とし、チト都合のわるい人たちを「賎民」とに分けた。 セン民を「五賎」といって、お上の都合上「官戸・陵戸・家人・公奴卑・私奴卑」 に分けおった。 でも、古代賎民制は8世紀頃から崩れはじめて、平安時代に入ると「五色の賎」も解体した。 当然だ。 地方の貴族に従属して、貴族の私有地(荘園)の護衛をする、賎民の頭達、「候(さぶろう)者」が、 徒党を組んで力をつけて行ったからだった。 (賎民の頭達の母親は賎民でも多くの場合、最初に賎民の娘への子種の植え付け男は、皇族との血縁もある貴族達) セン民頭たちが勢力をつけて、サムライとなり、サムライ統領は皇親女(むすめ)とも血縁して、後に平家と源氏の台頭となった。 でも、鎌倉末期になるとは領主関係など、支配の都合上、一応、セン民分化を創り、 職業によって名称も異なるが、 犬神人・河原者・エタ・きよめ・坂の者・夙の者・声聞師などがあった。 京都では特に、死んだ牛馬の解体、革製品の精製に携わっている集団が「穢(けがれ)た人」としての「錯覚文化」があった。 室町時代になってのセン民の出現は、古代賎民制の跡をひく者もいたようだが、 共同体から流出した者(政権抗争に敗れた皇族、貴族を含む)や、また、手工業者の一部も含まれた。 差別の意識観としては「触穢(しょくえ)思想」など、死や血のけがれに触れるものとして賎視が強く、軍事的に必要な皮革(馬具や甲冑などに使用される、皮革職人と皮細工、矢羽根、弦などに関わる技術者が低く見られた。 (この事情はインド伝来の思想) 中世賎民には差別を受けたが、戦で手柄を立てたりで、武士身分になったり、商売で成功して商人になるなど「身分間の移動」が不可能だったわけではなかった。 ところが近世になると、秀吉の「検地」や「人別改め」が行なわれ、身分によって居住地や職業までもが区別される支配体制が整備された。 歴史家の笠原一夫氏の研究では、年貢吊り上げ策の封建領主にあくまで抵抗した 浄土真宗の一向衆に影響力のあった地侍たちが、そんな身分に落とされたという。 続く。 ▲
by hiratomisinzo
| 2008-05-24 14:56
| 差別問題
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